こんにちは、artist-wです。
僕はADHD(注意欠陥・多動性障害)と
ASD(自閉症スペクトラム症)を併発しながら
歌とピアノの2刀流と接客業、副業など色々なことに
手を出して生きている発達障害持ちのアラサー男子です。
音楽をしたいが、正社員になってしまうと時間が取れなくなってしまうのと
発達障害の影響で、今現在やっている仕事でもミスや遅刻だらけで
ほぼテンパってしまっている状態のため、サラリーマンに馴染むこともできない。
しかし、かと言って音楽だけをやっていては、収入が見込めず、生活が苦しくなって
しまうという2重苦に苛まれてどうしようかという状態となってしまっていました。
そんなときに、好きなことと仕事を一致させることで、人生を進ませるという
発信のメルマガに出会い、これなら発達障害持ちの自分にもできるかもと思い
好きな音楽を通して、新しい時代に向けた
自分らしい生き方や幸せな生き方を追求するための活動
をしようと思うきっかけとなりました。
ここからは詳しい経緯についてを説明したいと思います。
普通にしていても、どこか周りの人とは違う
僕は小さい頃から、言葉の発達が遅く、「なんとなくみんなと違う」と感じていました。
親もなかなか言葉を発しないことに違和感を覚え
児童発達支援の事業所で支援をお願いしていました。
そこの人にも普通学級は難しいと思うから
特別支援学校に入れた方がいいと勧められていたそうです。
昔から空気を読むこと、言葉を選ぶこと、人の輪の中に自然と溶け込むことが
どうしても苦手で、どこか疎外感があった部分が多いと感じていました。
みんなができる「当たり前」が、私にはなぜか難しく
無理に合わせようと頑張るたびに疲れ、孤独感だけが心に残りました。
それでも「自分らしくいたい」という思いを手放すことができずに
どこかで「私にしかない何かがきっとある」と信じていました。
そう信じることで、なんとか心を支えていた部分もあったかもしれません。
ピアノを始めるきっかけといじめにあった中学時代
中学に進学すると、集団になじめない僕は、次第にいじめの標的になってしまいました。
何かしらの嘲りの標的になったり、暴力の標的になったりと毎日が息苦しく
教室に入るだけで胸が締め付けられるような思いでした。
そんな中、救いとなったのが一度やめていたピアノとの出会いでした。
ある音楽の授業で、ピアノを体験する内容で特別枠のことをしておりましたが
ある時、音楽の先生が拙い演奏ながらも、ショパンの「革命のエチュード」を弾いてくれて
その演奏に感銘を受けて、ピアノの演奏をしてみたいと思うようになりました。
どこへも行き場のない悲しみや怒り、言葉にできない感情を
ピアノだけは受け止めてくれたと感じ、いろいろなクラシックの曲を聴き漁るようになり
ピアノを改めて再開することで、音楽のふれあいを増やしていきました。
何もいうことが出来なかった僕の、唯一の「声」になったのが、音楽でした。
なかなか実力を伸ばせず苦労した、長い学生時代
音楽に救われた僕は、本格的にピアノを学び、専門学校で弾き語りや作曲を学び
大学時代で引き続きピアノと、副科としてですが声楽を学び始めました。
しかし、現実は甘くはなく、ピアノを始めた年齢も遅い上に、能力的に劣っていたためか
どれだけ練習しても思うように伸びず、周りの同級生たちはどんどん上達していく一方でした。
自分だけが取り残されるような焦りと悔しさに、何度も心が折れそうになりながらも
「音楽をやめたら、本当に自分を失ってしまう」と思い、必死に食らいつきました。
それでも、少しずつでも前に進むことを信じ、誰よりも時間をかけ
努力を積み重ねるしか方法がありませんでした。
そんなある時に出会ったのが、アルバイト先でたまたまオペラの企画をしていた上司の方がおり
合唱を探していたようなので、テノールパート歌える?と聞かれました。
弾き歌い1年と声楽を副科で1年の経験ですが大丈夫ですか?と聞いて
OKが出たので、テノールの合唱として参加したのがきっかけでした。
そこでオペラを初めて経験したことにより、演じることや歌うことの楽しさに目覚めて
声楽や歌の方も並行して始めるきっかけとなりました。
卒業した後の仕事での苦労やオペラやピアノでの活動
オペラの楽しさを知ったとともに、同時に起こったのが、ピアノのスランプでした。
念願だった曲を弾くことになり、練習をしていたのですが、何時間練習しても
ほとんど弾けるようにならず、あまりの弾けなさに絶望して、そこから自分の弾く
全てのピアノの音が金属音のように聴こえて気持ち悪くなってしまい
そこから演奏することが出来なくなってしまいました。
どうにか大学院の卒業試験は通すことが出来ましたが
大学院卒業後は演奏することが、しばらく出来ずに苦しみました。
それでも音楽のつながりを持たせたく、オペラの現場でしばらく歌の活動をしていました。
生活のためにアルバイトを掛け持ちしつつ、ピアノの方も新しい先生につくことで
新しい演奏法があることを知って、どうにかスランプから抜けるきっかけを掴みました。
いろいろ苦しみつつ、オペラやピアノともに小さな舞台であったとしても
音楽を届ける瞬間だけは自分が生きていると心から実感できました。
そうだからこそ悩みもがきつつも、「この道を歩いてきてよかった」
と思える瞬間を信じ、コツコツと前に進み続けていました。
収入が見込めない中、訪れたコロナによる生活の変化
そんな中で世界を襲ったコロナウイルスが蔓延して、音楽漬けの日々が
一気に変わって、演奏会もイベントも次々と中止となってしまいました。
未来が見えない不安や音楽を続けられなくなってしまったため
ピアノや歌に触れる機会も減っていってしまいました。
そして長いブランクの中での影響で、長い間のピアノの悪い癖によるダメージが出てしまい
ピアノをしばらく弾いていたら、指がだんだん丸くなって戻らなくなってしまう状態になり
ピアノの練習をすることすらできない状態となり、絶望感に打ちひしがれました。
それでも、心の奥底で「ここであきらめたら、本当にすべてが終わってしまう」と思い
どうにか治す術はないかと思い、いろいろ医者や声楽の師匠のマッサージなどを試して
「ジストニアもどき」ということが判明したので、筋肉の硬直や治すための練習法を
教えてもらい、どうにか演奏ができる状態にまで回復させることが出来ました。
またそれとともに人と直接会えなくても、音楽を届ける方法はないかとも考え
模索しながら、小さな発信も始めようと思い、始めたのがこの頃です。
どんな状況であっても「音楽で生きる」ことを、僕は諦めようと思えませんでした。
発達障害と診断されて、今まで周囲と馴染めない理由が判明
そして大人になって社会に出たある時、仕事でミスして叱責されたのが
きっかけで、前々から家族から受けた方がいいと勧められていましたが
なかなか受けられずにいた発達障害の検査を受けるようにしました。
そして、精神科の方から「あなたは発達障害の特性があります」と告げられ
やはり何かがおかしかったのかという思いと原因がわかった安堵感は、今でも感じています。
ずっと「自分がおかしい」「自分が努力不足」と責め続けてきた理由が、
初めて明らかになったなと感じた瞬間であったと思いました。
僕の今までの生きづらさには理由がしっかりあったのだと分かり
ようやく自分自身の事を許せたような気がしました。
そして、これまでのすべての苦しみが、少しだけ報われた気がしました。
発達障害でも幸せでいられる生き方を目指そうと決意する
診断を受けた僕は「障害があるから不幸になる」という考えをきっぱり捨てることにし
発達障害を持っている人でも、幸せに生きられる道を目指すことを決めました。
違いがあるからこそ、人に寄り添えるし、個性が重要であることもわかる。
苦しんだからこそ、誰かの痛みに気づけるし、共感することもできると感じました。
そんな生き方が、きっとできるはずだと信じ、僕は音楽を通じて
「あなたはあなたのままでいい」と伝えるようにしたいと思っています。
発達障害があっても、自分らしく輝ける人生を選べることを、私自身が証明したい。
そんな思いを胸に、今現在は歌やピアノで想いを伝える方法を教えたり
音痴を改善して、みんなと楽しい想いを共有できるようにさせる
ボイストレーナー兼ピアノ指導者として活動しています。